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一人のリーダーに依存しない組織
 リーダーシップという観点でいうと、徳川家康
もその手腕は群を抜いていました。

朝廷や公家に対する「禁中並公家諸法度」や
全国の武家を統制するための「武家諸法度」と
いった法令を定めて徳川家の周囲に目を光らせる
とともに、後継者となる息子・徳川秀忠に優秀な
家臣をあてがってリーダー育成に力を注ぐなど
江戸幕府という体制が崩れないように、先々まで
考えて慎重に基盤を作りました。

これまでもリーダーシップを発揮する優れた戦国
大名は数多くいたものの、その武将が亡くなった
途端にお家が傾いてしまうことは決して珍しく
ありませんでした。

家康が素晴らしいのは、リーダー一個人の力に依存
しない体制を作り上げたことではないでしょうか。

家康は織田信長、豊臣秀吉とともに戦国時代の三英傑
と称されます。

天才肌で、凡人がとても持っていないような才能を発揮
した信長や秀吉と異なり、家康は長年地道に努力した
結果それが成功に結び付いた人物であり、一般の人たち
でも真似できる点が多くあります。

ある歴史家の先生も
「三英傑の中で現代人が見習うべきは家康」

とおっしゃっているように、私たちが学ぶにふさわしい
偉人だと思います。

徳川家康公が徳川幕府を作り上げ、坂本龍馬が徳川幕府
を終焉させたんですよね。




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| tutumiblog | 堤と歴史・偉人 | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) | -
坂本龍馬は何故ブーツを好んで履いていたのか?
 坂本龍馬が写っている肖像画を見るとブーツ
を履いている写真があります。この時代の人
にしてはブーツを履くと言う事が珍しい事
だった様です。

だって着物にブーツと言う姿なのですから
ちょっと考えたらチグハグの様な感じに見える
と思います

でも坂本龍馬はとてもハイカラな人だった様で
好んでブーツを履いていた様です。ブーツを
履いている写真の1つに立って写っている写真
が有りますが、このブーツは長州の高杉晋作
から戴いたものだと言う様に言われています。

長州ではその当時長州沖に来ていたイギリス軍
やオランダ軍等外国船に対して攻撃をしていた
時期だったのですが、その外国船に乗っていた
乗組員が履いていたブーツを、坂本龍馬に渡し
たと言う説が流れています。

その写真から判断すると誰かが先に履いていたと
言う面影が有る様にブーツの先は破けていたり
履き潰したかのように爪先部分がそりあがって
いたりしている様に感じられます。

真意は定かではありませんが、そうではないかと
言われています。また別の坂本龍馬の写真では
座っている姿で写した物があるのですが、この写真
でもブーツを履いて写っています。

これは坂本龍馬が亀山社中と言う商社を開設し
外国から色んな物を輸入している時の立役者として
グラバーと言う方の力を借りていたそうです。

そのグラバーが住んでいた場所に靴屋があり
坂本龍馬が履いていた靴が既にボロボロだったのを
見かねて新しい靴を作ったのではないかと言う様な
説があります。

この様に坂本龍馬はブーツをとても気に入って
履いていたと言う事が伺えます。

着物にブーツって坂本龍馬だから似合うでしょうね。





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| tutumiblog | 堤と歴史・偉人 | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) | -
人は城、人は石垣
 戦国時代の武将はとても魅力的な人物が多い
です。例えば、甲斐国(現在の山梨県)を
治めた武田信玄は、古代中国の兵法書「孫子」
から引用した「風林火山」を旗印にするなど
さまざまな戦術に精通した軍略家として知られ
る一方でリーダーとしても優れた武将でした。

それを象徴するのが

「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は
敵なり」

という名言です。

信玄は、とにかく人の心を第一に考え、家臣や
領民を大切にしたといいます。

山梨県や長野県には「信玄の隠し湯」と呼ばれる
温泉が多数ありますが、これは合戦で傷ついた家臣
の治療や休養などに使われていました。

このように、信玄自身が部下思いであり、一方の
部下たちも、信玄を慕い、リーダーとして大変尊敬
していました。

戦国時代の武将は、魅力的な人物満載ですよね。
戦国時代も魅力のある時代だなぁと感じますね。





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| tutumiblog | 堤と歴史・偉人 | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) | -
武士は「切り捨て御免」を本当にやっていた? 2
 切り捨て後も大変。 
また切捨御免は、切り捨てた際には、下記の
ような手続きが必要だったと言われています。 

・斬った後は速やかに役所に届出を行うこと 
・どのような事情があったにせよ、人一人
 切った責任の重みゆえ20日以上に及ぶ
 自宅謹慎を申し付けられること 
・斬った刀は、詮議に使う証拠品として検分
 のため一時押収されること
・無礼な行為とそれに対する正当性を立証する
 証人も必要とされる 

たとえ正当な「切捨御免」だったとしても、謹慎
を受け、証人も捜さなければならず、かなりの
労力が必要になった様子です。

証人が見つからなければ家名断絶もあったわけです
から、家族や関係者全員が大騒ぎだったのではない
でしょうか。

無礼打ちであることの証明は、切った側の武士に
あるし、後始末も含めて時間も費用もかかる。
さらに、いくら正当な行為だと立証されたとしても
評判の良い行為とは評価されません。

ですから、後々の事を考えれば、我慢をしてしまう
方がずっと、得策だということになります。

以上のように、正当であれ不当であれ、相当な負担
がかかる「切捨御免」は実際にはあまり行われて
いなかったようです。

やはり時代劇とは違いますね。
もっとも最近では、テレビ時代劇も減って「切捨御免」
を見る機会も少なくなってしまいました。




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| tutumiblog | 堤と歴史・偉人 | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) | -
武士は「切り捨て御免」を本当にやっていた? 1
 江戸時代の武士の特権に、町人や農民から耐え
難い無礼を受けた際、その反撃として斬っても
処罰されない「切捨御免(きりすてごめん)」
があります。

悪い武士がこの特権を盾に悪行を行い、江戸の
町人たちから恐れられるという展開は、テレビ
時代劇ではお約束ですね。

しかし当時の武士たちは、実際に人を斬りまくって
お江戸を恐怖のどん底に陥れていたのでしょうか。

☆ 実際には、ほとんどなかった? 

「切捨御免(きりすてごめん)」は実際に行われて
いたのか?と疑問を抱いています。それに対する
回答は、むやみやたらに町民を切ったりしたら
切腹家名断絶などになりかねません。

じゃ、どういうときに切り捨て御免かというと藩を
覆すような大事件を伝令するとか、誰もが納得する
ような町民に落ち度があるような無礼打ちなどです。

限りなくゼロに近いです。

武士が無礼討ちを許されるのは、明白に無礼を働い
た相手に対してのみです。勝手に人を斬るのは辻斬り
で、死罪にあたります。と、明らかに耐え難い無礼を
受け、それを証明できなければ「辻斬り」となって
しまい、切腹、家名断絶などの重い罰を受けたため
実際にはなかなか斬ることは出来なかったようです。




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武士はなぜ腹を切って死ぬのか?

 武士と切腹は切っても切れない縁があります。
武士といえば切腹を連想しますが、いつごろ
から武士は自殺が切腹するようになったので
しょうか。

鎌倉時代が始まるころは、まだ武士の自殺が
切腹と決まったわけではありませんでした。

西国武士である平氏は戦いに敗れても切腹せず
入水自殺しています。

また、兄 源 頼朝に追われ、奥州平泉で自害
した源 義経も、死に際して「武士の自害は
どのようにするのがよいと言われているのだろ
うか」と聞いたといいます。(『義経記』)。

切腹が一般的になるのは、鎌倉幕府の末期です。
足利尊氏が幕府方を裏切って六波羅深題
(朝廷の監視役)を落とし、新田義貞が鎌倉を
攻めた際、幕府方の武士は、北条氏をはじめと
して大量に切腹して自殺しました。

ただ、切腹は戦いに負けたときの死に方でした。
罪を犯した武士は、切腹を許さず、成敗されま
した。「成敗」とは、打ち首のことです。

切腹が武士の刑罰になったのは、江戸時代が
始まってからの事です。

新渡戸氏は『武士道』の中で次のように言って
います。

「特に身体のこの部分を選んで切るは、これを
以って霊魂と愛情との宿るところとなす。
古き解剖学的信念に基づくのである。」
(『武士道』岩波文庫)

つまり切腹は自分の潔白や心の正しさを証明する
ための行動だったのです。古い観念がそうだと
すれば、罪を犯した武士に切腹させるというのは
矛盾した事で罪を報じさせるためには首を切る
必要がありました。

しかし武士というのは、百姓や町人と違って戦闘者
であり支配身分でありました。そのような者に他の
身分と同じ処罰を与えるのはしのびない、という
気持ちになります。そのため、当初は身分の高い
武士や殺したくないのにやむを得ず殺さなければ
ならないような武士にしか許されなかった切腹が
次第に武士の刑罰として命じられるようになった
のです。

切腹といえば、新撰組の話で数多く聞きますね。


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| tutumiblog | 堤と歴史・偉人 | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) | -
幕末のイケメン

 今回は岩盤浴テーマではなく、歴史の話です。

 

幕末のイケメンといえば何と言っても土方歳三
じゃないかな。






袴にちょんまげで新撰組として戦う武士から始まり
洋服にオールバックで一軍を率いて函館で散るまで
の変遷の歴史を生き抜く姿には憧れるなー


人生の中で、何度も常識という名の基準がガラッと
変わり、追う側であり守る側だったのがいつしか
追われる側に…


昨日までの常識が今日になったら非常識になってる…。
歴史をひもとくとそこまではよくあると思うけど
たいていは殺されるか捕らえられる貸して終わりなのに
舞台を京都から函館まで移して戦い抜いてきた生きざま
には脱帽。


止めることは簡単で戦い続けることの辛さは計り知れない。


見た目だけじゃなく、生き方そのものがイケてると思うなー



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| tutumiblog | 堤と歴史・偉人 | 01:10 | comments(0) | trackbacks(0) | -