武士と切腹は切っても切れない縁があります。
武士といえば切腹を連想しますが、いつごろ
から武士は自殺が切腹するようになったので
しょうか。
鎌倉時代が始まるころは、まだ武士の自殺が
切腹と決まったわけではありませんでした。
西国武士である平氏は戦いに敗れても切腹せず
入水自殺しています。
また、兄 源 頼朝に追われ、奥州平泉で自害
した源 義経も、死に際して「武士の自害は
どのようにするのがよいと言われているのだろ
うか」と聞いたといいます。(『義経記』)。
切腹が一般的になるのは、鎌倉幕府の末期です。
足利尊氏が幕府方を裏切って六波羅深題
(朝廷の監視役)を落とし、新田義貞が鎌倉を
攻めた際、幕府方の武士は、北条氏をはじめと
して大量に切腹して自殺しました。
ただ、切腹は戦いに負けたときの死に方でした。
罪を犯した武士は、切腹を許さず、成敗されま
した。「成敗」とは、打ち首のことです。
切腹が武士の刑罰になったのは、江戸時代が
始まってからの事です。
新渡戸氏は『武士道』の中で次のように言って
います。
「特に身体のこの部分を選んで切るは、これを
以って霊魂と愛情との宿るところとなす。
古き解剖学的信念に基づくのである。」
(『武士道』岩波文庫)
つまり切腹は自分の潔白や心の正しさを証明する
ための行動だったのです。古い観念がそうだと
すれば、罪を犯した武士に切腹させるというのは
矛盾した事で罪を報じさせるためには首を切る
必要がありました。
しかし武士というのは、百姓や町人と違って戦闘者
であり支配身分でありました。そのような者に他の
身分と同じ処罰を与えるのはしのびない、という
気持ちになります。そのため、当初は身分の高い
武士や殺したくないのにやむを得ず殺さなければ
ならないような武士にしか許されなかった切腹が
次第に武士の刑罰として命じられるようになった
のです。
切腹といえば、新撰組の話で数多く聞きますね。
今回は岩盤浴テーマではなく、歴史の話です。
幕末のイケメンといえば何と言っても土方歳三
じゃないかな。
袴にちょんまげで新撰組として戦う武士から始まり
洋服にオールバックで一軍を率いて函館で散るまで
の変遷の歴史を生き抜く姿には憧れるなー
人生の中で、何度も常識という名の基準がガラッと
変わり、追う側であり守る側だったのがいつしか
追われる側に…
昨日までの常識が今日になったら非常識になってる…。
歴史をひもとくとそこまではよくあると思うけど
たいていは殺されるか捕らえられる貸して終わりなのに
舞台を京都から函館まで移して戦い抜いてきた生きざま
には脱帽。
止めることは簡単で戦い続けることの辛さは計り知れない。
見た目だけじゃなく、生き方そのものがイケてると思うなー